1967年5月ICU同窓会宿泊会合報告書(同窓生ティーチイン報告書)が提起するもの

ICU出身者の視点 <<開催時の状況や参加者、5つのスピーチの抜粋等からの説明>>

 

 以下は、1967年5月24日~25日に当時青年研修施設であった小金井市の浴恩館にて実施された国際基督教大学同窓会による討論会記録『同窓生※ティーチイン報告書』の内容紹介である。

 

※ティーチイン:集会、特に大学の学生集会等に使われる言葉。学生運動で使われたやや政治的な専門用語。

 

 最初にこの会合に関する情報や、関連事項の説明を行い(○の部分)、そのあと、各スピーチからの引用で、その内容要約の難しさ及び生の声を重視する方針から、重要な点を抜粋して紹介することとした(●の部分)。抜粋内容選択や示される見解は本稿筆者村田によるものである)

 

 この報告書は『ICU学園紛争 その問題をこう考える 同窓生ティーチイン報告書 1967年6月24日~25日』とタイトル部分に書かれている。(国際基督教大学同窓会により1967年9月発行)以下ここでは単に「同窓生ティーチイン報告書」と記載する。「」に講演者の発言抜粋を記し、()に記したページは、引用した部分が記載されている箇所を示す。※印の語についてはICUの紛争を語る上で説明が必要と思われるため、初出の場所に説明をつけた。

※の語でも一般的語義説明は省いたので、その点は各自のご確認をお願いしたい。

 

○「同窓生ティーチイン」に先立つ、ICUにおける出来事、問題など

 

 この会合開催の直接のきっかけは、1967年2月からの本館占拠問題が起こったことである。1953年の教養学部開学の前年、語学研修所開設の1952年から15周年を迎えた1967年に起こった、学生による本館占拠は8月21日の授業再開まで長引いたが、そうした学生運動活発化の一因が、15年間の歴史の中で生じたICUの変化、社会の変化にあるというとらえ方は、同窓会主催のこの「ティーチイン」報告書の以下のスピーチのいくつかに共通するものと思われる。

 

 ICUでは「献学」と呼んでいる開学(大学設立)以来、ICUでの学生運動には様々なものがあった。1953年の小田急バス定期券代値上げ反対のためのバス乗車ボイコットや、1959年の食堂問題(詳細不明)、同年から翌年1960年には日米安保条約反対(主に学外でのデモなど)、1961年に発表された学費値上げに反対する運動、1965年の(食堂の)食費値上げ反対運動もあった。※生協設置要求から1965年末の本館占拠があり、1967年の2月には、受験料値上げ反対や、※能研テストの入試への導入反対から、学生による本館占拠が起こった。

 

 ※生協:生活協同組合。19世紀イギリス発祥だそうだが、ICUの初期評議員にもなったキリスト教社会運動家の賀川豊彦も日本でのその分野の先駆者。ICUにはないが、大学に生協の売店があるところは多く、現在では企業委託の形のところも増えているようだ。

 

 ※能研テスト: これについては「予告編」の1にも記載したが、当時ICUで、受験者の高校内申書の基準が学校や入学年等によって大きく異なることから、より客観的基準として入試への導入が決定された能力開発研究所による知的能力の測定テスト。この導入の是非が当時ICUで大きな問題となった。入試での大量の選択問題採点をコンピューター処理で行うこのテストはのちの共通一次試験や、大学センター入試などの原型でもあった。

 

○「同窓生ティーチイン」開催経緯、参加者、報告書の構成 等

 

 この「同窓会ティーチイン」は、1期生で当時の同窓会長、横堀洋一氏などが卒業生に呼びかけた。現役学部学生からは元学生会執行委員長の福家俊朗氏(後述)が参加。「現状認識」を述べている。大学院より石谷行氏、1期17名、2期10名(+ご家族1名)、3期6名、4期5名、5期12名、6期4名、7期6名、8期8名、9期7名、10期18名、11期9名の総計105名(他同伴小児7名)が参加。

 

 1期の川田殖氏(当時人文科学科講師)5期の土橋信男氏(故人。当時教育学科助手)、1期の大和田康之氏(当時ICU学長秘書室長)のスピーチ、現役学生からは、前年に役員への立候補者がなく消滅した学生会、その最後から2人目の執行委員長福家氏のスピーチも収録。(同じ13期で最後の執行委員長の有坂氏には、同窓会事務局の仲介により連絡がつき、お会いすることができたが、福家氏は現在連絡先不明である)

1967年2月に学生の「入試問題対策協議会」から移行し、本館を占拠した「反対者同盟」のメンバー学生は参加していない。なお、1965年末にもあった本館占拠は、1週間ほどで自主解除し100人~200人が参加とのこと。(26ページ)

 

 同窓会長、横堀氏のスピーチが報告書では冒頭にあり、その次に実行委員長の位下浩一郎氏がこの泊まり込み討論集会の様子を振り返って伝えているが、位下氏の原稿部分は割愛した。当プロジェクトではいずれ報告書の全文のネット掲載を目指すことが確認されたので、実現された時にはぜひ全内容を読んで頂きたい。

 

 報告書の前半は、基調講演ともいうべき、キーパーソンによる講演。後半はそれに続くテーマ別のグループ討論。各テーマから幅広い問題について多くの発言が紹介されているが、膨大な量であるため、残念ながらここではご紹介できなかった。以下に紹介する各スピーチにも刺激されて、活発な意見が交わされたようである。テーマ別のグループ討論、資料(マスコミからの資料は、当サイトの次回記事予告編2の新聞記事紹介の一部、予告編3に当たる週刊誌記事紹介の部分はここから転載をさせて頂いた)、「学則改正案に反対」(卒業生代表から理事長への手紙)などが51~151頁に渡って掲載されている。(本稿筆者註 この学則改正案は学内での政治活動の禁止が盛り込まれていた)

 

 

●『同窓生ティーチイン報告書』収録のスピーチ(何人かのキーパーソン)からの抜粋

 

 総合司会の横堀洋一氏(この当時の同窓会長)によるスピーチ「自らの問題として把えよう」より抜粋(2ページ)(横堀氏は1期生、1957年ICU卒で、初めてのICU卒業生世代であり、共同通信社に入社。ジャーナリストとして現在に至っている)

 

 「現在三百五十をこえるという全国の大学のなかでは、まだ歴史の浅く、問題も山積するICUだが、結局、この学園を根幹から本当に支え、改革しいていくエネルギーは、ICUのことを最も真摯に自らの問題としてとらえ、それ故にこそ大学が創造期から潜在的に抱えてきた欠陥や矛盾を大胆に正していく努力の中にこそあると痛感した。」

 

福家俊朗氏(当時社会科学科4年)のスピーチ「私の現状認識」より抜粋(5~12ページ)

 

 「学生が問題にしたのは能研テスト採用を通して、日本社会に対する漠然とはしているが不安というもの、一体日本は経済的に立ち直ったかに見えているが平和なのかどうなのか、正しい道を歩んでいるのかどうなのかという疑問を大学に問うたのだと思うのです。」(7ページ)

「 (一年前の学生会ではー本稿筆者補足) 生協の時には、生協のために全学ストをやろうということに対して、大討論をして、反対したわけです。今回の問題についてはそういう経験でとらえて、※能研についての学生の疑問に答えられないことに対して、非常な不満と疑問を覚えたわけです。」(7ページ) 

 

 ※能研→能研テスト 最初の、「○『同窓生ティーチイン報告書』に先立つICUにおける出来事、問題など 」に説明を記載。

 

5期の土橋信男氏(前述。当時ICU教育学科助手)の「何故このような事態になったのか」より抜粋

 (13~34ページ)

 土橋氏の指摘は多岐に渡り詳細なもので、報告書自体もこのサイトでいずれ全ページのアップを検討しているが、ここでは以下の発言と「少し抽象的言葉でまとめ」た、項目列挙で紹介をすることにした。

 

 「(一般学生について)彼らの大部分は、やはり反対者同盟の本館占拠という手段には反対をしていましたが、そうせざるを得なかった事情については同情をしていたし、又能研テストに関しては大学の考え方にはほとんど全く反対をしていたのです。」(14ページ) 前述の1965年末の本館占拠の際に結成された「助手会」が1967年の紛争問題について「今回の問題は表面的な解決ではだめで、ICUの根本的なところから問題が発生しているのだから、そこからなおしていかないとだめだ」との見解だったと述べている(15ページ)

 

一、※四無(よんない)主義の横行

二、形式主義の跋扈(ばっこ)

三、封建的な考え方の支配

四、自由を擁護し、公平を重んずる精神の欠如

五、合理精神の欠如

六、遵法精神の欠如

七、信仰の問題

 

※四無主義: 無気力、無関心、無感動(三無ーさんむー主義という言葉がよく使われたのは、本稿筆者ー1957年生れー世代が10代半ばの頃、筆者の世代やその少し上の世代を指してのことだった) 無責任が加わった「四無主義」の表現もあったことを今回ネット検索で確認した。

 

「私自身ICUにいて働いているものとして、ICUに対する批判が以上のように多くあるわけですが、ICUのよい点は批判すべき点にも増してあると思います。ただ今日のところは、問題点のみをあげましたので、何かこう悪の巣窟のような感じを受けるかもしれませんが、そうではなくてむしろICUは弱者、※罪人の集いなのです。」(34ページ)

 

(本稿筆者註 ※罪人:ここでの「罪人」はキリスト教での「原罪」を背負う人間を指すように思われる)

 

大和田康之氏(1期)(ICU学長秘書室長)「能研事件反省を反省する」より抜粋(35~38ページ)

 

 「私が今、私の関知した限界での諸々の事実について語ることは、仮今成功したとしても、聴き手に与える印象としては、暴露的なものであり、自己弁明的なものとして(しー本稿筆者補足)か受け取られないであろうし、それは私の意に反することであります。」(35ページ)

以下は、氏の原稿上の見出しの語と、記載内容の抜粋。

 

 ICUにおける「病気」の症状

以下鍵括弧内は本稿筆者が抜粋した表現。「日本的な、あまりに日本的文化症状」「ICUの後進国性」「非国際性の現れ」

 

 第一の病気、主観的判断優先意識過剰症

「社会的事象、事実に対する客観的観察、その信頼性についての検証、それに基づく判断の妥当性の検討という過程を無視し」「すでに抱いていた判断の枠に当てはめて性急に発言し、時には意見を強要する」「例えば1963年初夏、学長が学費値上げについてひとつの考えを示そうとした矢先の授業ボイコット決議と翌朝のスト決行行動」

 

 第二の病気、手段選択における俳句的飛躍症

「今回の事件に関連して、本館占拠という手段選択の当事者説明には、その様な選択をせざるを得ない客観的状況にあったという「疑似状況論理」的弁解。第二には、自分の主張する目的、「論理」に対し、他人は同じレベル又は質でこれを論ずべきであり、これに応じないことは自分たちの主張を認めたことに違いないという、究極的には、自分に対する甘えの心理」

 

 第三の病気、行政当局に対する権威主義的被害妄想

 「学長の能研に対する告示は教授会の将来の自由な意思決定を拘束するという懸念や誤解。行政当局はその意思決定に置いて学生の意見を聞くといいつつ無視するという学生の批判(これにはある程度の真理はあろう。しかし多くの学生にとり、「意見を聞け」とか「納得のいく説明を求める」という表面上常識的な要求は、かれらが意識せずとも実質的には「学生の云うとおりにせよ」という一種の主観的期待と組織的拒否権行使を意味します。)」

 

(本稿筆者註:1期生で1967年当時40歳、すでに学長秘書室長という立場でICUに勤めているので、5期の土橋氏とは同じICU勤務ながら捉え方も違うようである)

 

 

川田殖氏(1期 当時ICU人文科学科講師)「ICUの当面する諸問題」より抜粋(43~50ページ)

 

 ー同窓会ティーチ・インのためにー

 

 はじめに

「勝つよりはむしろ敗けて、自分の間違いというものをそこで知らされて、そして自分たちの共通の考え方の中で真実に一歩近づくことを喜ぶ精神ーこれはまあ対話の精神といってもいいのですがーがなければ、議論をしてもむだではないかと思います。そこで学問的精神というものが大切になるわけです。大学でも、この精神から、教師なら教育と研究のなかで、学生なら、学生同志、或いは教師と学生の間で、学問的精神から本当に生かされて、自分の人格を切っても切り離せないようなものとして、生きているかどうか、ということが、大学の問題を考える時の一番の中心問題になるだろうと思うのです。」

 

キリスト教のあり方

※超教派ということをいう前に、まずキリスト教というものが、本当に、何によって厳しく、何によって愛に溢れたものとなるか。この点を本論にたち返って一度明確にする、これが大切です。」

 

※超教派 キリスト教の宗派を超えたまとまり、ここではICUにおけるそのような志向を指していると思われる。

 

共同体としてのあり方

「(ICUが)創立以前から持っていた問題で、ファミリーというものの良さと悪さ、不徹底さというものをそのまま残して※ゲゼルシャフトとも云える共同体に移っていったために、多くの問題を残すものとなってしまったのではないかと思います。そしてその過程の中でいいつのまにか、人格的ということと、なれ合いということが混同されてしまい、つに特殊部落に転落してしまった。」

 

※ゲゼルシャフト: ゲマインシャフトと対の社会型。成員が各自の利益的関心に基づいてその人格の一部分をもって結合する社会 

 

同窓会の問題

「教養学部というのはやっぱり駄目で、結局はいいかげんな通訳にしかなれないのだということになるか、教養学部でやった者が、学会の最先端で活躍することが出来ると実証できるか、或いは家庭に、職場に、教場に、本当にこの大学で得たものを生かし、なるほどICUでなくしてはこういう人材は生まれないということを示すことができるかどうか(中略)そういうことをよく考えて、ものを云ってもらいたいのです。このさい理事会に人物を送って梃(てこ)入れをさせるとか色々な具体案が考えられる。梃入れをしなくてはならぬものはまず自分自身ではないかという風に考える観点を失ってもらいたくない。共に失いたくないと思うのです。」

 

川田氏はこの3年後の1970年のICUの大学紛争後に大学を去られた。このスピーチは、一期生で、ICUで教えていた(西洋哲学)人間が、1967年当時のICUでどのような思いをかかえていたかを知る手がかりになると思われる。

 

○この同窓会主催の宿泊討論会の経過、その意義など

 

 会合は、6月24日土曜の午後4時半の受付、そのあと夕食後のオリエンテーションでこれらのスピーチが話され、その晩、及び翌日25日の午後6時解散までの間にテーマごとのグループ討論、全体討論などが行われた。

 

スピーチを読んでわかるように、学生の本館占拠という行動には疑問も表明されている。しかし現役学部学生と大学院生の2名を含む様々な立場・意見を持つICU出身者が一同に会し意見を述べ合った意義は大きい。この時までにICUで起こった様々な出来事を、多くの参加者が「我が事」と考えていたことが、この報告書から読み取れる。

 

 

 

以上、かなり限られた紹介の形となったが、様々な立場のICU同窓生がどのような経緯でこのような会合を持ち、ICUという大学のあり方を心配していたのかを、今多くの人に知ってほしいと思う。(文責 村田広平 24期=ID80)

今回記事は’67学生新聞号外分析までの予告編4に該当します