このあとに掲載する文書は、本年(2019年)11月3日、4日のICU祭において、当プロジェクトと学生との共同企画「ICU史再考 1966~70」でついたてに掲示したもののうち、最初のグループ、大学からの通知文書です。
詳しくは、当ウェブサイトの「ICUの学生運動史」を参照して頂きたく思いますが、まずは1969年の春から秋までの経緯を説明を加え大学側文書から辿ってみます。(会場では掲示物には説明文をつけていませんでした)
「確認書」交わした後も 教授会の分裂続く
3月22日に久武学長が辞任表明して秋田学長代行が代表する執行部と「ICU全共闘」という、学生会の決議で学生の代表権を獲得した組織との間の確認書7つが4月1日まで交わされた後、4月22日、大学理事会がこれらの「確認書」を承認せず、4月24日秋田学長代理の辞任が発表されます。
このあたりの事情について、秋田学長代行の執行部と全共闘との間の7確認書合意に反対する教授達が中心の「ICUを守る会」の「国際基督教大学教育職員 一般職員 学生諸君」という4月26日付文書や、「国際基督教大学に関係するすべての方々にー「ICUを守る会」の手紙についてー」はまだここでは公開しませんが、このあとに掲載する(前)秋田執行部による5月6日付の文書からは、教授会内部の対立や造反劇が垣間見えます。
秋田稔学長代行による執行部が全共闘の要求を入れる動きに対して、別のグループの教授たちが教授会をボイコットするということまでが行われました。そのようにして秋田執行部が倒れ、その後誕生した三宅彰学長代理の取った非常手段の結果起こったことに対し、未だICU大学当局からの説明がなされず、ICU図書館でもこの時期の重要資料の整理も公開も行われていません。
次回以降、学生側文書と証言とICU祭イベントでの講演内容もできる限りお知らせする予定です。また、様々な学生側グループの活動、影響を及ぼしたセクトや導入された機動隊が行った行為、全共闘側の不祥事等についても触れますが、今後は、当時の全共闘などの学生側グループ幹部や、現在の理事長・学長にも見解を求めていきたいと思います。
このあとの文書や補足説明の多くはいずれも特に断りのない場合は「霹靂 第二号 七確認書成立以降 中島「学長代理」辞任まで 1969年3月~10月」国際基督教大学大学院学生会 常任委員会編 1970年4月25日発行ー等からの記載によっています。
4月24日久武氏が学長の職務を代理する委員会形成を4名(秋田執行部より橋下助教授、「小委員会」より荒木教授、教授会ボイコットグループより奥津助教授、中野助教授)に命じ(その後、同日夜橋下助教授、荒木助教授が辞退、その後奥津助教授、中野助教授も辞退したが)、秋田執行部の3名(小塩氏、田川氏、丸山氏)から、そのことについての公開質問状が4月26日(教授懇談会、日生劇場)に出されたり教授会内部でも目まぐるしい動きがあったようです。
そして5月6日に、学科長6名が暫定的に集団で学長代理となることに決定。次の5月8日の通知は、その6名による学長代理機関が、全学生に向けた通知で、当面6月卒業生と4年生卒業のための授業再開をめざし、学生各自が責任を自覚して学園内での私的・公的行動を取ることを求めています。
次の声明書の発表の前、5月に学長代理機関から教授会開催に関するアンケートが各教授に送られたり、5月17日付でそのアンケートに対する疑問(学外で教授会を開催することに対して等)が、「貴議長団殿」として教授有志18名連署で表明されています。(5月14日にICU全共闘がD館封鎖ー館内の同窓会事務局、宗務部などが別の場所に移ることとなります)
この後、6月12、13日には、八王子の大学セミナーハウスにて、教授懇談会が開催され、次に掲載の声明にもつながるようです。
次の声明書二つがひとつの用紙に記載された文書のうち、前者は6月16日のもので、「五月六日付『声明書』で「七確認書に関する措置はそれを保留する」としており、「我々は今後、教授会を継続的に開催し、積極的に『三項目要求』対処していくことを表明する」と言うものです。後者は6月30日付、教授会内部にも対立する意見が存在することを認めながらも「いかなる緊急な課題も、真に連帯的かつ自立的な教授会の確立およびここにおける真剣な討論の積み重ねなくしては、適切に遂行され得ないと信ずる。」と表明しています。
教授会開催できず 授業再開遠のく
次の7月2日付の学長代理機関の声明書は、教授会内部での上記のような経緯を経て、その年度初の正式な教授会が、7月1日に学外(4月30日の教授懇談会、5月26日にICU評議員会・理事会も開かれた国際文化会館?)で行われた様子が書かれています。そこに学生がやって来て、「会場に入り込み」、「審議の続行は不可能になった」ことにより「当分の間われわれは教授会の開催を断念せざるを得ない。」「しかしながら、学長代理機関は大学正常化のために、なおできる限り努力をする決意である。」と述べています。この教授会の会場に「入り込んだ」のは「全学共闘会議の学生諸君約五十名」と、この声明書には書かれています。
(成員6名中、学科長の交替があった社会科学科の名前が先のものと代わっていることを青付箋に記載)
7月17日のメールポール(郵送による投票)により、8月19日に、中島省吾教授が学長代理に就任し、学長代理機関はその任を終えて解散しますが、中島学長代理は「全共闘との合意に達せずに辞任」します。(この部分は『卒業生のICU40年』国際基督教大学同窓会事務局編 1992年発行、の記述を採りました。同書では、10月1日のメールポールにより、三宅彰教授が学長代理に任命、され、10月13日付の次の文書、三宅彰氏の「学長代理就任声明」が郵送されています。(おそらく学生の他、教職員へも)
授業再開を最優先で大学は非常手段へ
そこには、学生側の要求する三項目に関しての、氏の見解が表明されていて、その見解に基づき、「七確認書の実質化は、教授会における最終的な結論の出ない限り、行う訳にはいかない。特に確認書の底流となっている特定のイデオロギーは、大学としてコミットすることは絶対にない点を強調しておく。」との言葉があります。「暴力から学園を守るため、緊急時にやむを得ず用いられる、いわゆる防衛手段を暴力呼ばわりするごときは、暴力正当化のためにする議論としか思えない。」 能研処分は「実力行使という行為の結果についての責任を問うもの」で「他の理由によって相殺されたり正当化され得るものではない」と述べています。また「教授会の機能が速やかに回復するよう努力すべき」ことを説き、「今日の事態を招いた原因の大半は、教授会の混迷、その自立性の喪失にある。」とも断じています。
次の文章は、10月14日付で、「御父兄の皆様」宛ての文書では、6月6日にも「学長代理機関」からの報告があったことや、学生が構内で建物の封鎖を行って大学の機能が麻痺したとして、中島学長代理が8月30日と9月12日の全学集会に出席したことが書かれています。そして「ことに九月十二日の集会は、徹夜で十六時間に及ぶ大衆団交になりました。」「しかしながらこれら二回の大衆集会も何ら生産性のあるものとなり得ず、その後の集会は中島教授の健康上の理由から中止となりました。」との説明です。その後、中島教授は「話し合い路線が挫折し」たことで辞任し、九月八日に湯浅八郎理事長から、「速やかに正規の授業を再開し、もって社会と大多数の学生の要望に応えられるよう要請する」との要請書の公表があったこと、全共闘側の要求について「最近は理事会との大衆団交、湯浅理事長の退陣などを要求して、妥協のない斗争の姿勢を示しております。」と書いています。
「新執行部は、毅然たる態度をもって、本月末日までには授業再開を行うことを決意いたしました。」との予告があります。
下記の文章は、ひとつ前の文書の末尾の「なお、学生諸君に宛てた手紙をご参考までに同封にてお送り申し上げます。」と書いてあるもので、「父兄」あての郵便に上の文書と共に同封され、学生にはメールボックスに配布されたものと思われます。
ここまでに、ICU祭での掲示物の第一のまとまりで、その場では実物以外の説明はありませんでしたが、このサイトに再掲載するにあたって補足説明をつけました。そしてその上で、下記の文書をどのようにとるかは、閲覧者にゆだねたいと思います。ご感想や、当時ICUにいらした方の証言をお待ちしています。(証言者の氏名などは原則的に伏せさせて頂きます)
次回以降はICUの学生側文書の再掲載と全共闘内部の主要グループ、全共闘内部の問題を取り上げ、ICU祭イベントでの講演の内容などもご紹介していきたいと思います。(文責: 根本・村田)