<24期 ID80 社会科学科卒 根本敬 より>
「歴史を知ること」とは、自分が今立っている現実から過去に「問い」を投げかけることからしか始まりません。過去はあらかじめ準備されたものではなく、「問い」によってはじめてその姿を現すものだからです。それだけに、自分勝手で排他的な「問い」を投げかければ、過去からはそれに応じた狭いレベルの「歴史の答え」が跳ね返ってくるだけで、それは自分にとっては居心地のよい答えでも、立場を超えた多くの人々が共有できる「答え」ではけっしてないでしょう。逆に、自分が発する「問い」に多少なりとも普遍性や「横につながる」姿勢が込められてあれば、過去からはそれにふさわしい「歴史の答え」がうち返され、自分以外の人々とも幅広く共有できるものになるのではないでしょうか。
こう考えますと、1966年から70年に学内の対立が顕在化したICU(International Christian University
国際基督教大学)の歴史を、当事者ではない「次世代」「後世代」から見ていくときの「問い」はどのようなものになるでしょうか? 敢えて提示すれば、それは次のようになると思います。
「ICUがICUであり続けるために、学生と教員と大学経営者(理事会)は当時、何を問い、何のために対立し、対立を乗り越えるためにいかなる解決を試み、その結果、何を失い、何を後世に残しえたのか」
21世紀に入って5分の1が過ぎようとしているいま、この「問い」はそれなりの普遍性を持つといえましょう。1966-70年の出来事(またその前後の出来事)をどのようにとらえるにせよ、おそらくその時代に関与した当事者同士では永遠にひとつの答えは見つからず、相対立する見解が並立し、したがって和解の推進も考えにくいものとなるでしょう。しかし、「次世代」「後世代」のICU卒業生の「当事者ではなかったことの特権」を生かすことを許してもらえれば、この日々に関わる一次史料や回想録等を幅広く多角的に集め、読みこみ、関係者のお話を伺うことによって、時間は相当にかかりますが、上述の「問い」への有意義な「答え」を過去から導き出せるのではないかと私は夢見ています。
多様なご意見やご批判があることは十分に覚悟しています。しかし、それをも糧としながら、この「問い」を敢えて投げかけたいと思います。ご協力いただければ誠にうれしく存じます。