以下は原一雄先生の『回顧録(続編)-越し方を顧みて-』(2021)より先生のご厚意により転載させて頂いたものである。続編の前の本編は、『ICU回顧録-幻を追い求めて』(2017)でICU図書館にも寄贈されているが、公開対象に含まれておらず検索でもヒットしない。(以上は村田広平による付記 2021.6.17)

 

Ⅰ-2.「学園紛争記」への補筆

1)「能研テスト騒動」発端の背景

 既に別著『回顧録 その1』「第9章-4)能研テスト騒動とその余燼」(85頁)で述べた如く、学園内で紛争の種を探し回っていた不満分子らに対して不用意にも反対運動の口実を与えたのは確かにこの私に違いなく、その責任の重大さは半世紀を経た今日に至るも決して忘れたことはない。よって、先ずここに再度当時の社会的情勢と私の意図とを端的に述べることにする。

1965年のこと、本邦では嘗て前例なき「入学事務室(アドミッションズ・オフィス)」を行政機構の一部局として常設することを提言し、「入学事務部長(ディレクター・オブ・アドミッションズ」の職責をお引き受けした。(『大学要覧1966153頁)そして、世間の一般的通念からは甚だ懸け離れていると評されてきた「ICUの入学者選抜方法」に対して、次節で詳しく述べるように些かなりとも学術的裏付けを試み、また、財政面に関しては全くの素人ながら、その入学志願者選考手続に要する労力・時間・経費の削減を図り、大学の管理運営面に少しでも改善を図ることに日夜腐心していた。

ところが1967210日、一部の学生が本館を占拠し、410日に裁判所仮処分の執行によって強制排除された所謂「能研テスト反対闘争」が起きた折には、これまでに学内でしばしば見られたストライキ騒動の常套手段が踏襲されつつも、しかし、何かしら妙に異質なものが感じられた。

大学の方針に対し何事によらず逆らうことを以って「己の自立」を証したがる学生たちの振舞いには、先輩らのそれと良く似たところもあったが、しかし、今回初めて耳にする「反対者同盟」とか「全共闘」と称するグループでは、本当の主導者が果たして本学の学生会を代表する者たちなのか、一部の過激思想にかぶれた先鋭的不満分子なのか、それとも他大学から密かに潜入してきた所謂プロの政治的活動家たちなのか、これまで学生たちの動向を比較的よく把握していた心算の私にも、この時ばかりは陰で操る扇動者が一体何者かを見定めることは出来なかった。

また、実は教職員たちの中にも何かと行政部の方針に反発する一派があることは以前から薄々気付いていたものの、まさか暴力を振るう学生たちを庇うばかりか、裏で彼らの策謀に力を貸しているとしか見受けられぬ同僚までがつい身近にいることを知り、改めて大いに驚かされたのであった。

 ところで、何と半世紀も過ぎた20181216日、読売新聞日曜版の第1面では「パンドラの箱 開けた」の表題で幾つかの医学部が入学試験の合否に性別や浪人経験を加味したことを「不正・不適切」と糾弾し、入学者選抜の方法についてその全貌を公にする必要性を述べていた。勿論今日の世の中では少しでも詳しく情報を開示することについて異存のある筈はない。

しかしながら、これらの紙面では相変わらず受検者の全員が同一の物差しで測られねば、そして、全て点数の多寡で以って優劣を評せねば「平等の原則」に反するという主張のように見受けられた。恐らく他紙も似たような論調であったことは推測に難くない。これを眼にした途端、私の脳中には又もや彼の悪夢の如き「能研騒動」の記憶が甦ってきたのである。

 

2)「能研テスト」導入の理由

未だに「学歴」が大きくものを云う今日の社会では、個人の一生を大きく左右しかねない「大学入学試験」につき、事柄の重大さからその良し悪しを論ずることはこれまで「タブー」とされてきた。この「触れてはならぬ問題(untouchable problem)」に対し、教育心理学の立場から正面切ってメスを入れようと試みたのが、他ならぬ新たに開いたICUの「入学事務部」であった。

すなわち、開学以来これまで入学者の選抜に使用してきた各種の判定方法には、果たして「検査(教育的テスト)」としての要件が充分備わっていたか否かの検証である。そこで、具体的に言えば、先ずそれら諸検査の「妥当性」と「信頼性」と「実用性」につき実証的証拠を示すため、過去の全ての入試関連資料、すなわち、高校内申成績、本学作成の学習能力(適性)検査(一般・人文・社会・自然科学)、語学(英語読解力・英語聴解力)検査、面接試験の結果と在学中の学業成績との相互関連を調べ、もしも可能ならば外部の専門家が作成したテストの助けを借りて、より精密に検証しようではないか。このような教育心理学的課題に則して始めた実践的研究活動こそ、「能研テスト」の導入を試みた真の意図に他ならなかったのである。

ところが、斯様な試みが残念にも失敗に帰した理由は、社会的常識はさて置き、恐らく本学の人間ならば説明を尽くせば必ず理解してもらえるものと信じた私の「判断ミス」である。また、本当にこころの許せる「身内」乃至は「同志」たちと、もしも隙あらば何時でも他人の足を掬わんものと虎視眈々狙っていた「羊面の狼」どもとの区別を怠った「脇の甘さ」に他ならない。云うならば、世間一般の声が持つ恐ろしさに気づかなかった「鈍感さ」への代償と云うべきであろう。従って、己の落ち度は落ち度として確と認めつつも、「未練がましき醜態」と人様から如何様に評されようとも、また、今に至っては何の役にも立たぬことを重々承知の上、未だに自己の正当性を主張する訳である。

 

3)SFCと「学生新聞 号外」

 そこで、必ずしも客観的史的文献には値しないかも知れないが、些かなりとも当時の雰囲気を伝えることの出来そうな資料を紹介して置きたい。それは「能研反対運動」の発端となる1966年の暮に開かれたSFC(学生教授連絡協議会)の録音テープをそのまま詳細に記録した『国際基督教大学学生会新聞 号外』の記事であり、別冊『回顧録 その3』に「資料2-1)」として載せてある。

 なお、この号外にはその他に、第1面の上部3段には「論説:入試制度改訂 拡大執委による反対運動の組織化を」が、また、裏面にも同じく3段組みの「能研とは何か 芸大反対闘争にみるその危険な本質」なる囲み記事が掲載されていた。

前者の冒頭には、「生協闘争が現象的に終わりを告げてから丸1年。当時様々の形で顕在しつつあったICUの諸矛盾・諸問題は何ら本質的な解決へと歩を進めることもなく、学生・教授・当局者により放置されたままである。」、「能研は明らかに文部省文教政策の一環として存在しており現段階における日本資本主義体制に奉仕する人間群育成・学問の質形成を目指すもの・・・」、「かかる視点に立って我々新聞会は、執委並びに全学生に対し直ちに入試制度改訂反対の運動を組織することを要望する・・・」などの文言が含まれていた。

他方の後者には、「一昨年の656月末、東京芸術大学(芸大)評議会は全国の国・公・私立大学のうち初めて「能研テストを在来の第一次試験の代わりに全面的に採用する」ことを決定、9月以降、芸大美術学部学生が反対運動を組織し始め、116日全学ストを決行し「能研採用」決定に反対し、翌667月末、評議会は「能研採用」の方針を撤回した。以下に少し詳しく芸大能研闘争の経過を追ってみた。・・・」などと記されている。

そして、【解説】欄では反対する理由として、「民間財団法人を文部省が推進し、能研に関する労務を拒む教師に、校長が職務命令によって強制する可能性がある。」、「能研の完全アチーブ式の内容では受験生のもつ「能力」の判定には不十分、不適切である。」、「最も大きな問題として、能研テストが、池田内閣以降の「人づくり政策」の一環としてうちだされ、日本の「高度経済成長」に見合った「人財」の「開発」の手段である・・・」等など、当時のジャーナリストたちがよく口にした言葉が並べ立てられていた。

 

4)『学生新聞』掲載記事:「新聞会からの質問状に就いての所感」

実は前節をもってこの稿の筆を擱き、大人気もなく私噴の一端を晴らした心算でいたところ、又もやダンボール箱の底から古い資料が出て来た。すなわち、『国際基督教大学学生新聞 第135号』の2頁目、「食堂値上げ問題、ⅠMDを中心に総会開催を展望」欄の下に書かれた私に対する糾弾の記事と、それに対する「所感」の名を借りた私からの反論である。よって、前節に倣い、全文は『回顧録 その3』の中に「資料Ⅱ-2)」として再録しておくこととする。

そもそもこの時の争点は、大学食堂(中富商事)の値上げ案であり、それを承認した大学事務局側の代表、すなわち、「学内厚生委員会」委員(原、川瀬、山口,近川、清水)に対する第一男子寮の寮生たちを中心とした反対運動であった。「能研テスト反対」騒動から私が手を引かされてから既に5年余を経ていたにも拘わらず、未だにある一団の学生たちからは執拗に攻撃の的とされていた事態の傍証として、同紙上の原文をそのまま付録欄に転記することにする。幸いにも私の回答文に何一つ筆を加えずそのまま記載してくれた点からは、未だに学内で消滅せずにいた人間関係の一端が伺われ、今になってはある種の「可愛さ」の感さえも覚えざるを得ない。

 

なお、回答文の後半は、在職中ならびに半世紀を経た今日でも変わらずに持ち続けてきた「テスト(試験・評価用具)」に対する私の持論であり、このような機会を捉えてでも、心理学や教育学の基礎知識に疎い学生たちに対し、所謂世俗的な用語法と学術的定義との相違に気付かせ、些かなりとも彼らに大学生としての襟侍と熟慮を求めたいと云う願いを込めたものであった。それと同時に、この記事を眼にする同僚教職員たちへも、丁度その頃に学内で熱中していた「大学の自己点検・評価」活動に協力を期待したいという私の「教師根性」、すなわち、教育実践家としての意気込みを推測してもらえるに違いない。

 

(以上は『回顧録(続編)―越し方を顧みて―』p6~9からの転載分)

 

Ⅵ-4.異世代間に絆を求めて

2)ウエブ・サイト「ICU史再考」と学園祭「トーク・イべント」

(1)半世紀のトラウマと「卒業生への質問状」

 確か2017年の夏頃であったか、インターネット上に『ICU史再考 1966-1970』なる表題でウエブ・サイトを開いた卒業生根本 敬・村田広平両君(24期生)の活動を知ることになった。しかし、そこに提供されていた資料が、学園紛争時に反対派に属した教員の書いた狂信的な主張(付録3.文献1)と彼に追従した学外同調者の論評(同2)であり、更にはこれらの一方的見解にのみ基づいて書かれたと思われる余りにも「学徒の卵らしからぬ」筆使いの卒業論文(同3)を見て、何人かは知らぬが指導した教員の視野の偏狭さに改めて驚愕させられた。

よって、上記卒業生両名の善意を活かすためには、より客観性の高い資料の補足が是非とも必須と考えると同時に、私の胸中にはこれまで抑え込んできたトラウマが何十年振りかに再び疼き始め、要らぬお節介とは重々承知の上ながらも、またもや一肌脱がざるを得ないと云う気持ちに駆られた次第である。

そこで、早速、紛争当時の反対派メンバーや後輩のシンパ諸君たちと、可能ならば公開の場で討論する機会を持つことが出来ないものかと打診してみた。勿論、今更双方が己の立場を変えることは非常に難しかろうが、せめて争点を今一度見直して誤解の原因につき率直に語り合い、何らかの形で「和解」への糸口を探り出したい旨を伝えたのであった。

ところで、もしも討論をするともなれば、本来ならば飽く迄も手の内は明かすべきではなかろうが、仲介者には正直に持論を伝えておかねばなるまいと考え、先に(第1章-2.)触れた1967112日発刊の『国際基督教大学学生会新聞 号外』(付録の資料2.1))を上記両名に紹介し、ついでに長年に亘り胸の内に秘めてきた一連の疑問点、計10項目からなる「質問状」(資料1.1)(1))を送信したのだが、文面が余りにも挑発的であったが故であろうか、未だに返答を受け取っていない。

さて、この稿を終えるに当たり、筆者がこれまで関心を抱き続けてきた課題を書き加えて置きたい。その一つは、終戦直後から今日まで大学(或いは高等教育機関)入学受験者用に試みられてきた所謂「外部テスト」の歴史的考察である。しかしながら、もしも内容に触れると紙面を取るので、ここでは単にそれらの名称と実施回数のみを記すだけに終わらせたい。すなわち、文部省「進学適性検査」(1947~、計5回)、能力開発研究所「能研テスト」(1966~ ?)、国公立大学「入学者選抜共通一次試験」/私学参加後に改名「大学共通第1次学力試験」(1979~ 、計11回)、大学入試センター「センター試験」(19902020、計30回)/「大学入学共通テスト」(2021~)。

次の問題はICUで執られた対応策への自己点検である。私が入学者選抜業務から手を引いて以来、ICUでは入試方法にいろいろな工夫が加えられてきた。すなわち、受験科目を選択させたり、試験時間数を短縮したり、ある時期には「大学入試センター試験」を導入し、「一般学習能力試験」を廃止して「総合教養試験」を加えたりもした。このために費やされた教職員たちの甚大なるご努力に対しては、大いに敬意を表するものである。

しかしながら、果たしてその変革のために本学の献学の精神に則った理念的基盤の再確認と学術的な裏付け作業、すなわち、実証的資料の蓄積が充分になされてきたのであろうか。入学事務部や教育研究所乃至は心理学研究室(現行の心理・言語学科)が入学者選抜方法の改善に向けて何かの追跡調査を施行し、次年度の入試実施に対して教授会に対し如何なる助言をなし、また、教育・心理学関連の諸学会や研究会などでどのような発表がなされてきたのか、残念ながら筆者は寡聞にしてこれまで耳にしたことがない。更には、宣伝文句の羅列に終わりがちな他校の広報活動とは異なり、是非とも受験生や高校の進路指導教諭たちへの教育的情報資料、すなわち、日常の学習活動の中で進路指導の指針となり得るものを誌上やネット上に発信して頂きたいと切に希う次第である。

(2)「ICU創立の起源と学園紛争前史」  (2019.11. 314.30-15.30 本館 174教室)

前記の如く、インターネットのホーム・ページ上に『私たちのICU史再考 19661970年を中心として ― Reconsidering ICU History 19661970 』なるウエブ・サイトが設けられ、関連記事が画面に登場し始めてから早くも2年以上が経った。

そもそも、当該プロジェクトは、企画者の言を借りると、「ICUの大学紛争/闘争を可能な限り客観的かつ多角的に振り返り、この時期からの対話の不在と対立によって生じている様々な断絶に真摯に向かい合い修復を図ることを最終的な目的とする。そのため、当事者(当時の学生、大学職員、関係者)の証言・記録を幅広く集め、同意を求めたうえでネット公開を目指す」とあり、筆者はその趣旨に賛同して早速手元にあった資料の幾つかを提供してきたのである。

この様な経緯から、2019年度の学園祭初日に於いて上記表題の講演を引き受けることになった。もう一人の講師は嘗ての学生会会長三宅一男氏(8期生)であったが、会場の中には当時の反対運動派に属していた卒業生らしき人物は一人も見当らず、「能研問題」に対する質問も皆無であり、残念にも当方からのチャレンジは全くの「空振り」に終ってしまった。

なお、後日に書面で感想を述べて下さった松本一之氏(14期生)からは、教養学部設立の前提条件に戦前の基督教徒の長年の夢なる大学院大学の構想があったこと等など、今回初めて聞かされた話に感銘したとの講評を頂けたのが、せめてもの慰みと相成った。

何時もの調子で原稿を見ずに約1時間に亘って喋りまくったのだが、幸い話の筋書きだけは残してあったので、後の反省会には何とか全文を復元させておくことが可能となり、本誌の付録にも加えることが出来た次第である。(付録4.講演原稿(1))

 

(以上は『回顧録(続編)―越し方を顧みて―』p121~123からの転載分)

 

 

 

Ⅰ-6.ICU祭トーク・イベント「ICU史再考 1966-1970」での講演

下記の講演用原稿は、ウエブ・サイト『ICU史再考 1966-1970』を開いている根本 敬・村田広平両君(24期生)の要請に応え、ICU祭プログラムの「トーク・イベント」(201911.314:30-15:30 於H-167)にて講演するために用意した素稿である。実際の発言とは少々異なる点も生じたが、大要は述べることが出来た心算である。なお、各節の冒頭で括弧≪ ≫内へ記した標題は、話しの内容を判り易くするため読者の便を考えて後から記入したものである。 

 

「     演題「ICU創立の起源と学園紛争前史」

≪1.「トーク・イベント」へ参加を希望した理由≫

 そもそも「ICU祭」は、本来在学生が日頃のキャンパス・ライフを広く学内及び学外の人々にご披露する「楽しい祝いの場」であるべきところ、そこへ敢えて遠い昔に退職した教員が顔を出し、嘗ての勤務校にとっては最大の「恥部」とも云うべき「学園紛争」について語ることは、話す本人にとっては勿論のこと、聞く側の方々にも大変胸の傷む仕事であります。

しかしながら、それは飽く迄もある時期に激しく意見を対立させて互いに傷ついた卒業生と教職員同士が再び膝を交え、一刻も早く「和解・仲直り(reconciliate)」することを切望するからに他なりません。両者共に、今でも己の主張は曲げたくないでありましょう。しかし、既に半世紀以上も経た今日ならば、再度当時の事態を「再考・見直し(reconsider」し、世間的な面子を捨てて、「あの時にはもっとよく話し合いをすることが出来なくてご免なさいね!」と素直に詫びを云い合うことが出来るに違いない。斯様に考えて、根本 敬氏と村田広平氏の両君が2年前に立ち上げたウエブ・サイト『ICU史再考』への協力を申し出で、本日の「トーク・イベント」へも参上したような次第です。

そして、本日ここに来た学生諸君へは、もしも自分がそのような場合に遭遇したならば、果たして如何なる態度をとるであろうかと、現在身近な日本社会や世界の各地、例えば沖縄、香港、中近東などで起きているいろいろな紛争問題に対し判断の参考にして頂ければ何よりの幸いと願っております。

2.講演内容の要点

今日お話ししたい事柄の要点は、大きく分ければ次の二つです。

第一は、日本には戦前からキリスト教主義の大学が既に幾つも存在していたが、それにも拘わらず何故に戦後新たにICUの創設が提案されたのか? すなわち、本学に期待された元々の役割は何であったのか? そして、この本来の目的が充分理解されていなかったが故に、それに対する異論や誤解が後々の学園紛争を複雑化させた素因ではなかろうか? 

第二は、大学の財政上・教学上・保安上の問題であった筈の受験料の値上げ・能研テストの導入・機動隊へ待機の要請が、何故に学園紛争の引き金とされてしまったのか? 説明者側の大学当局と受け取り側の学生たちとの間に認識上の齟齬が生じ、その隙間を学外からの働き掛けにまんまと乗じられて、問題を一層こじらせたのではなかったか? 

 そこで、先ず初めに申し述べておきたいことは、芥川龍之介の小説「藪の中」のお話ではありませんが、「歴史」には「語り部」の数だけ「異なるヴァージョン」があること。従って、話の信憑性を少しでも高めるため、もしご質問があれば該当する場所を確認してもらえるようにと、皆さん方が持っておられる、或いは図書館で何時でも閲覧可能な『大学要覧』を基にお話を進めたいと思っております。念のために、ここには本学最初の『大学要覧』(1953-1955)と、私の就任時の1961年度版、そして、退職時の1993-94年度版を持って参りました。

更にもう一つ付け加えたいことには、このプロジェクトが1966年から1970年までの学園紛争 についての考察ですが、私はその前年度、すなわち、1965年の春から入学事務部長(Director of Admissions)を仰せつかり、従って紛争の発端に関与し、その責任を深く受け止めております。しかし、19673月には既にその職を解かれ、1968年の時点では行政当局から半ば休職を命じられて海外へ出掛けるべくキャンパスを不在にし、後半の事情に関しては詳しく語る資格がありません。

≪3.ICUとの最初の出会い:自己紹介に代えて≫

さて、司会者の村田広平さんが斯様なプリントを用意して下さいましたので、同じ話を繰り返すことは出来るだけ差し控えたいところですが、彼氏から矢張り話の中で是非とも触れて欲しいと頼まれましたので、先ず自己紹介を兼ねて、私とICUとの最初の出会いについても一言触れさせていただきましょう。

実は私が本学の創設計画のことを初めて耳にしたのは、忘れもせぬ195198日(日曜日)の夕刻のことでした。この日は講和条約の最後の調印式の日で、早朝からサンフランシスコ・オペラハウス2階のバルコニーに設けられた傍聴人席に座り、ステージの上で吉田 茂首相が講和条約に署名するのをこの眼で見ていたとき、舞台の右端にそれまでは公の場で掲げることの許されなかった「日の丸」の旗が国連加盟国約50ヶ国の国旗と一緒に並べられたことに気付きました。

「これでやっと戰爭をしてきた国々と仲直りが出来る!」と高鳴る胸を抱きつつ、帰り道に近くのパイン・ストリートにある「ジャパニーズ・メソジスト教会」へ立ち寄り、日本語の夕拝に加わったところ、その日の献金が「この度新しく日本に創設される大学へ寄付される」と云うお話しを聴き、帰りのバス代1ドル50セントを残して僅かでしたが財布の底を叩きました。

この教会に集る日系人たちの多くは戦時中に強制収容所へ入れられ、開放されて帰ってきたものの家も店も留守中に他の人種の人々によって荒らされ、再び一から出直そうと必死に働いていた者たちが集り励まし合っていた場所でした。その中の一人が私の祖父宇佐見繁市であり、数えてみれば今から既に68年も前のことであります。

よって、もしも後で時間が許されれば、斯様に私へ留学の機会を与えてくれた祖父について、また、アメリカ人の保証人ジョンD.クラメ―氏、すなわち、初期の卒業生たちが懐かしむ本学の食堂で飲めた濃厚な牛乳や、そのために食堂裏に建てられた「ミルク・プラント」との関連についてもお話をさせていただきたいと考えております。

 

≪4.ICU創設の起源≫

それでは、このICUはそもそも何の目的で建てられたのでしょうか? 私自身が理解しているところでは、彼のペリー提督が黒船4隻を引き連れて浦賀へ最初に来航したのが1853年(嘉永6年)のこと、そして、早くもその数年後には、医師で宣教師のジェームス・へボン博士らが横浜にミッション・スクールを創立し、徐々に明治学院、青山学院、立教、東京女子大、同志社、関西学院等などプロテスタント系の大学を全国各地に数多く建てましたが、しかしながら、第二次大戦が終わるまで、そこで教えることの出来る教授資格の持ち主は、専ら旧制帝国大学の出身者に限られていたのです。 

そこで、彼のアイグルハート先生のご本(”International Christian University : An Adventure in Christian Higher Education” 1964)によれば、1883年(明16)ペリー来航から30年後の大阪に於ける宣教師大会で、「日本基督教主義教育のかなめ石(cap stone)」となるべき総合大学(comprehensive university)の設立 が要望され、その後も何度か提案が繰り返されたものの、関東大震災や経済恐慌や幾度かの戦争などで毎回断念せざるを得ませんでした。ここで云う「キャップ・ストン」とは「笠石」とも「かなめ石」とも呼ばれ、燈籠などの天辺に載せられて全体のバランスをとる最も重要な役割を果たしている石のことです。

そして、終戦直後の1945922日には、お隣の東京女子大学の理事会でこの案が再び提案され、日銀総裁の一万田尚登氏を募金運動の後援会名誉会長に、また、日本タイムズ社社長の東ヶ崎潔氏へ後援会会長をお願いするに至ったことは皆さん方のよく知るところでありましょう。

しかし、果たして皆さん方は最初の『大学要覧』に書かれた次の一節をご承知だったでしょうか?「日本が未だ戦災から恢復せず、惨憺たる経済的頻拍の最中にも拘わらず、寄付金は皇室をはじめ、北は北海道、南は九州の炭鉱夫や農民から・・・寄せられた」(『国際基督教大学要覧1953-1955』、2頁)と書かれていたこと。また、各地の日銀支店では行員たちを総動員させ「全国の小中学生たちから10円玉献金を集め、それによってこの三鷹の土地が買収出来た」と云うお話は、今日まで感謝の念を込めて私たちがしっかりと語り伝えてきたのでしょうか?

実はこの私も「大学要覧」(1961年度版)を最初手にした時には、何故に理事長「東ヶ崎潔氏」と名誉評議員「一万田尚登氏」に囲まれて同じく名誉評議員として「秩父宮妃殿下」のお写真が載っており、また、御殿場会議の記念写真の前列中央にも「秩父宮様」が座っておられたのか、些か怪訝に思ったこともありました。しかし、前掲の一文を読めば、多少なりとも当時の事情が推測できる気が致します。詳しくはアイグルハート先生のご本27頁(邦訳版41頁)辺りをご覧下さい。

他方のアメリカとカナダでは、ヴァージニア州リッチモンド市のマックリーン牧師が日曜礼拝で「汝の隣人を愛せよ」のお説教をなされ、それが契機となって広島と長崎へ原子爆弾を投下し市民の間に多くの犠牲者を出した上、敗戦による貧窮に苦しんでいる日本人たちを救援しようという募金活動が開始されました。

そして、ニューヨーク市リバーサイドのユニオン・チャーチ事務所に「日本国際基督教大学財団 JICUF」が設けられ、1千万ドルの募金を目標に活動を始め、連合軍総司令長官ダグラス・マッカーサーを名誉会長に、また、近衛文麿内閣の時代に日米関係の修復に尽力されたジョセフ・グルー元駐日大使を会長に据えたことを、今のICU関係者たちは如何なる想いで覚えているのでしょうか? それとも、嘗ての一時期の如くに、敢えてこれらの事実には眼をつぶり、意識的に忘れようとしているところはないでしょうか。

また、上記のことを捉えてか、後に鵜飼信成先生が学長になられて間もなき頃、或る週刊誌が又もや「ICUと自衛隊は進駐軍の落とし子だ」などと中傷記事を書いたので、それに対して如何に反論すべきか、1期生の大和田康之君と私が学長宅へ呼ばれて一晩中協議したこともありました。

なお、本学の初期の評議員の中には、マッカーサー元帥が日本へ来て真っ先に助言を求め、それによって昭和天皇が戦争犯罪人のリストから除外されたと言い伝えられる賀川豊彦牧師や、また、社会党初代党首で元総理大臣片山 哲氏のお名前も入っていることも忘れてはならないでしょう。

因みに付け加えますと、賀川先生は嘗てアメリカ日系人の間で宣教活動をなされた際、私の母方の祖父宇佐見繁市がお供をしたことがあり、また、片山氏には私自身がサンノゼの教会で講演をお聞きし、その後でこの色紙「我もしキリストに在らば新に造られたる者なり コリント後五ノ一七 片山 哲 印」を頒布していただき、今でも我が家の宝物にしております。

しかし、戦後間もなく東西間に冷戦が始まると、アメリカとカナダに於ける募金活動は一頓挫し、新しい大学の建設計画案も縮小を余儀なくさせられました。その結果が、彼の19496月の御殿場会議で決められた案であり、この時に何か在米財団側の代表トロイヤー先生が、あたかも「教養学部」案を突然持ち出して日本側の「総合大学」案を無理やり押し潰したかのように書いている文書がありますが、それは当時の世界情勢に疎い人々の謂われなき誹謗に過ぎません。

これは蛇足ですが、丁度私がアメリカへ出発する2か月前、すなわち19508月には北朝鮮軍とソ連軍が38度線を越えて南を奇襲攻撃し、そこで朝鮮戦争が勃発、私の乗った客船プレジデント・クリーブランド号は神戸を出港するとき潜水艦の攻撃を避けるため灯火管制が敷かれ、横浜に着くまでは一晩中船内を真っ暗闇にして過ごしたことを覚えております。

≪5.本学に託された独自な使命≫

 それでは、斯様な厳しい世界情勢の中において、新しく日本に建てられるICUには如何なる役割が期待されたのでありましょうか。それを最も明確に示す資料として、JICUF出版の“NEW LEADERS for THE NEW JAPAN”から該当箇所を引用すれば、最初の壮大な「総合大学comprehensive university」案は「何れ時期が熟すまで(when the time becomes ripe)」は将来の目標に残しながら、当座は止むを得ず縮小案で行くこととし、よって3つの専攻課程をもつ大学院と一つの教養学部に絞り込みました。(p.17)もしも皆さんならば、このときにどのような学問領域と専修部門とを選んだでしょうか?

そこで選ばれたのが「教育(Education」・「行政(Citizenship and Public Affairs」・「社会事業(Social Work」という今迄にない新しい3つの専攻学科でした。その理由を私流の云い方を許していただくならば、 日本を軍国主義国家へ走らせて国民を苦しい目に会わせたのは勿論軍人たちの責任である。しかし、それを止められなかった学校の先生、お役人、そして財閥などのお金持ちにも責任がある。従って、これから民主主義国家を目指す日本にとり今最も必要とされるのは食料品や医薬品など眼に見える救援物資ではなく、新しいタイプの教育・行政・社会事業の分野における指導者を養成することであり、そのためには、これまで日本の何処にもなかった「大学院大学」の設立を最優先させるべし、と云うことでありました。

ところが『学校教育基本法』の「大学設置基準」によれば、大学院を開設するには先ずその下NEW に4年制の学部を置かねばならず、よって「教育学・行政学・社会事業」という新しい研究分野の大学院の何れにも学生たちが4年間をかけて自主的に判断し進路の選択が出来るような、アメリカやカナダの名門大学が力を注いできた「教養学部 CLA」をモデルに採用した訳であります。

そして、このCLAには二つの目的があり、その一つは、自由諸国に知られてきた4年制の教養学部」が如何なるものかを海の彼方の人々へ示すこと。もう一つは、大学院の院生たちにキリスト教主義か否かを問わず、日本の大学で教鞭が執れるよう教育実習の場を提供するto serve as a laboratory schoolことでありました。(pp.18-19

云い直せば、本学はこのような基本的構想の基に、1958年に大学院教育学専攻科が認可されたことにより、初めてそれまでの単科大学(college)から所謂総合大学(university)へと胸を張って自らの校名を呼ぶことが出来るようになったのであります。

皆さん方は、本学の「憲法(University Constitution」をご存知でしょうね。私学ではそれを「寄付行為」と呼び、大学の設立認可を申請する折に文部省へ提出するものです。私たちの『大学要覧』には、3つの「大学の使命」と9つの「特色」として書かれているものであり、昔は「12カ条の御誓文」と呼んでおりました。よくご存知のこととは思いますが、もう一度、その一部を読ませてもらいましょう。

「本大学は、最高の教育水準基督教の信仰に基づく教育計画を以て、平和と世界文化の発展に貢献する新日本建設に努力する指導者を養成することを目的とし、その実現を図るため、下の各項を実施する。

1 本大学は大学院程度の研学を主眼とする。4年制の教養学部をも併置するが、教育の徹底を図るため学生数を制限厳選主義を採る。」

そして、学生指導方針として特に注目すべきは

「5 学問と現実生活の結合を謀る。その方法として人格の発展に資すべき勤労社会活動の計画実施に努める。」

 と書かれております。(『国際基督教大学要覧』 1953-19553頁)

さあ、ここでいよいよ私がお話したかった一番の核心に入りましょう。何故、この頃に大学が、学内アルバイト学外活動参加をそれ程までにも重要視し、学生たちに図書館・食堂・農場・電話交換室等などの手伝いや学外のいろいろな社会的運動に大学当局が積極的に後押ししたのか、皆さん方にはもうお判りいただけたことでしょう。

1991年度の卒業アルバム『DESIDERATA 1991』(1213頁)の「ICU学生会・学生活動年表」には、調布飛行場設置反対決議(1953)、塵芥焼却炉設置反対決議(1956)、クリスマス島水爆実験反対(1957)等などに続き、入学金増額(1959)、安保問題(1960)、食堂委託経営(1960)の後で「湯浅学長による政治活動制限声明」(1960)、大学管理法案・日韓会談反対決議(1963)、学費値上げ・授業ボイコット(1963)、食堂ボイコット(1965)、生協設立運動発起人処分に抗議して全学ストと自主的解除(1965)等など。

そして、その後には、執行委員会任期終了、選挙管理委員会解散とともに学生会消滅(1966.11と書かれてあることから、1966年頃には学生自治体組織が如何なる事態にまで陥っていたのか、凡その様子を推察することが出来るでありましょう。

≪6.受験料値上げ案の根拠≫

実は1963年の春に私がD館のコンボケーションで学務副学長トロイヤ―先生の通訳を頼まれ、学費の増額案、すなわち、当時の年額¥36,000を徐々に¥48,000にまで上げたいと云う行政部の案を説明した時には、学生納付金収入が大学全体の年間経常費の16%にしか当たらず、それを段階的に25%にまで上げて欲しいという要望でした。後の25%は政府の助成金と国内募金で補い、残りの50%は何とかニューヨークの財団から援助してもらえそうだというお話であったのです。

帰国早々の私の眼には、日本の大学生たちの生活振り、特に本学の世間と比べて格段に恵まれた勉学上の環境が非常に贅沢に映り、上記の提案は至極尤もなものに思われました。しかし、それでもこの案は学生たちの一部から非常に強い反対を受けたのでありました。

 そこで、1966年に私が入学事務部長を命ぜられた際、先ずこれ迄の会計帳簿を覗いてみたら入試のために毎年大きな赤字を出しており、支出項目の一つが学生アルバイト費であることが判りました。因みにアルバイト代の変化をお話ししますと、開学当初には時給¥4050であったものが10年後には¥6065、そして入学事務部を開設した時には¥100を超え、受験生が増えれば、また、それに応じてアルバイト学生の人数も増員しなければなりません。(『ICU FRESHMAN HANDBOOK  195625頁、『大学要覧 196336頁)

よって、1966年度の受験料を、これ迄の¥3600から一次試験¥3000+2次試験¥2000へと値上げするよう提案したのでした。ところがそれを理事会が¥3000+¥3000へと変更したので、緊急に学生教授協議会(SFC)が開催され、その場で学生会の代表たちと交わした話のやり取りの録音記録が1966112日の『学生新聞 号外』に載りました。その現物は掲示板に、また、その中の要所をプリントするようにと村田君にお願いしましたので、後でゆっくりご覧下さい。

≪7.能研テスト導入の必要性≫

 上記のような雰囲気の中で、反対運動の矛先が今度は近くの東京芸術大学で問題になっていた「能力開発研究所」のテストの方へと向けられてきた訳です。ここで、先ず昔からの本学における入学者選考手続きについて概略をお話しておきましょう。

この大学では他所の大学の所謂「入試」とは些か異なり、決し高校で習得した教科目の知識を調べる「学力試験」の点数だけで以って合否を決めるのではなく、「教養学部で学習するに適した人物」を選び出すために可能な限り多面的な評価を行います。その総合的判定に用いる個人毎の「プロファイル」には、本学で受ける「一般能力検査」と各種の「学習適性検査」の成績に加え、「面接試験」・「出身高校からの内申」・「留学経験」・「性別」・「出身地と出身校」・「第一志望/第二志望」等など、多くの情報を判定委員の先生方に一目で判るようにしておかねばなりません。

また、本学の入学試験の採点については、嘗ては全て手作業で行われ、試験日の夜は学内に住む教職員や家族の他にも、寮生たちや近隣の下宿生たちが総出で徹夜の採点業務を手伝い、女子寮では夜食のお握り作りに大わらわでした。しかし、このキャンパスに新しくメンバーを迎い入れるという大切な仕事に関わり、大いなる喜びと誇りを持って参加してもらったものでした。

ところで、私が入学事務部を開いた最初の年には、鉛筆の芯の中に鉄粉の入ったもので答えをマークさせ、霞が関の人事院の地下室にあった磁気式(マグネチック)採点器をお借りしましたが、次の年にはIBMのパンチカードが出回ったので、普通の鉛筆で回答欄をマークさせ、最初は水道橋のIBM会社のコンピュータで処理することが出来ました。後に中央区日本橋茅場町のコンピュータ会社に作らせた1967年度版の評価用紙がこれであります。その後、本部棟の2階にIBM360、更にN3階に1370が設置されるようになってからは、採点業務が大層楽になりましたが、嘗ての入試と云うキャンパス住民が総出の行事が一つ無くなってしまい、大変残念に思いました。

このような一大イベントとしてのユニークな入学志願者の選抜方法は、他大学の何処にも見られぬものですが、その中で相変わらず私共を悩ませていた一番の問題点は、受験生が提出する「高校内申書の信憑性」であります。これに最初に気付いたのは1期生の中山和彦君で、岡部先生のご指導の下に書かれた論文が大学紀要『教育研究』11巻に掲載されております。(中山和彦「高校内申書の信頼性についての一資料」『教育研究11185-2051965

すなわち、ICUを一度受験して失敗し、再度志願してきた人の内申書が前のものと異なるケースが幾つも見つかったのです。高校在学中に提出する内申書は3年生2学期までの成績であり、卒業時のものと多少相違することはあり得ることですが、評価5が3になることなどは先ず考えられないことでしょう。このことを高校へ伝えますと、北海道や九州から校長先生が飛行機で駈け付け、「何とか内密にして頂きたい」と頭を下げられるのでした。

よって、高校内申書の信憑性を客観的にチェックするため、外部テストの「能力開発研究所」の「学力テスト」を受けるように要求した訳です。斯様な全国的標準テストとしては、嘗て文部省が1948年から1955年まで「進学適性検査」を施行しましたが、全国高等学校長会から、と表向きは称しても内実は日教組の反対で廃止に追い込まれ、岡部弥太郎先生が会長であった応用心理学会のみが、学術的追跡研究の必要性からその継続を主張したのでありました。

この「能研反対運動」の時も、日教組はこのテストの目的を「池田内閣の所得倍増計画のために18歳人口を輪切りにし、よって若年労働力を確保する目的の資本家のために考えられた道具である」と称して反対したのでした。さて、この人々は、その後に出てきた「国公立共通一次テストや「大学入試センター試験、そして次に準備中の「大学入学共通テスト」などに対しては、現在如何なる態度を表明しているのでしょうか?

≪8.機動隊待機要請の背景≫

 さて、私に関する限り、三鷹警察署へ機動隊の待機をお願いしに出掛けた理由は、飽く迄も学内に住む人々を学外から侵入してくる無法者から護るため、すなわち、キャンパス住民の保安対策でありました。ところが、何故か日本では昔から大学構内へ警察官の出入りを一切認めません。

本学の場合、当時キャンパスの境界は専ら生け垣で仕切られ、例えば寮生が私の部屋へやってきて、「先生、昨晩は垣根の外に顔を出して楽しかった」と自慢げに報告してくれましたが、これも本学では「ドライ・キャンパス・ポリシー(学園内禁酒規約)」が一応守られていた所為であります。また、神田先生のお庭のバラ園の堆肥にと私が林の中の落ち葉を集めていたら、突然地元の人と思われる人物に「入会権は私たちにあるから勝手に持ち出してはならぬ」と大声で叱られたことがありました。その林には時々夜鳴きそば屋が笛を鳴らし、寮生たちが遅くまで図書館に残るルームメイトのためにアドヴァイザー宅へお鍋や丼を借りにやってきたし、第1女子寮では風呂場が長谷川病院の患者に覗き見されて大騒ぎしたこともありました。よって、広いキャンパスの保安対策は、大学にとっての重大懸案事項の一つに挙げられていたものです。

恰もこのような時期に、学園紛争が続くにつれて他大学の運動家らしき者がD館周辺に出没し、遂には本学の学生たちまでが覆面しヘルメットを被り、ゲバ棒を担いでデモ行進をし始めたので、彼らが大きな隊列を組めぬようにと管理部長の細木氏の発案で本館前の芝生に梅の木を植えたのもこの時でした。他方、本館を占拠してハンスト中の学生たちに対しは、何とかして彼らの健康状態を守るためにと、医師からドクター・ストップを掛けさせる他に打つ手がありませんでした。よって、最悪の事態を避けるため、最後の手段としてまさかの節は機動隊に姿を見せてもらえるようにと、学生部の青木 實氏と一緒に三鷹警察署へ出掛けたのでありました。

 これは大分後のことですが、嘗て私の講義を受けたことのある清水徹志君がある日突然研究室に現れ、「自分は全共闘に属しているが、どうしても父親と意見が合わない」と悩みを訴えたので、「個人の信条は大事にせねばならないが、他人や大学へ迷惑は掛けて欲しくないね」と話して帰らせたことがありました。

ところが、どうやらその後で彼は自ら大学へ退学届を出したらしいのですが、間もなくして彼の父親から横浜の大学(実際は神奈川大学)の構内で派閥間の内ゲバ騒動により死亡したとの電話をもらい、びっくりしてお葬儀に駆け付けました。その際のお父上の悲痛なご挨拶は今でも忘れることは出来ません。(朝日新聞 昭和48年(1973年)916日版「内ゲバ、二学生惨殺」)

9.まとめ

 本日の集りは、主催者が「当プロジェクト指針について」の冒頭で次のように述べています。「1.このプロジェクトは、ICUの大学紛争/闘争(その前の1950年代末や後の1973年にもありましたが、特に1966年~1970年)を可能な限り客観的かつ多角的に振り返り、この時期からの対話の不在によって生じている様々な断絶に真摯に向かい合い修復を図ることを最終的な目的とする。」

 そこで、1960年代前半に若輩ながら行政職の末端(学生指導副学長行政補佐、及び入学事務部長)を担わせていただいた者として、今も胸の痛む事態につき、これまでの歴史書には余り記されることがなかった学園紛争の遠因を探ると共に、当時の学内の様相を振り返ってみたいと考えた次第です。

 最初に指摘したかったことは、本学創設の起源に基づく独自の構想や教育理念と一般の社会的通念との間には非常に大きな隔たりがあり、その中でも「大学院大学構想」と「教養教育」との関連性、並びに「全人格的発達」を促す一環として特に「自主的判断と自発的行動」及び「勤労と社会活動の計画実施に努める」ことを強調していた点に触れました。

 そして、それらを実践するに当たっては、開学以来学内(理事会・行政部・教職員・学生たち)相互と夫々の内部に多くの隠れた亀裂が生じており、これらが学園紛争によって一気に顕在化されたが故に学園紛争を長期化させる原因となったこと。更に、当時の社会から寄せられた強い風当たりに対しては、本学独自の理念を主張しようと努めたものの、悪意に満ちた巧妙な扇動に対しては余りにも無防備であったが故に抗しきれず、残念ながら大きな傷跡を残したものと私は理解しております。

最後に、学内学外の反対運動家たちを説得出来なかった原因には、私の認識不足や周囲への甘え、更には自己過信等、今でも反省せねばならない点は少なくありません。しかしながら、当時この私には自己の信条を基にそれ以外の行動が取れなかったことを正直に告白し、甚だ不遜のように聞こえるでしょうが、今以って己に恥じることの何一つなきことを申し述べて、本日の発題を終わらせていただきます。 」

 

(引用文献)

1.『国際基督教大学要覧』(1953-1955)(1961年度版)(1993-94年度版)                  2.ICU FRESHMAN HANDBOOK  1956』                               3.Iglehart, Charles W. (1964)”International Christian University : An Adventure in Christian              Higher Education.ICU, Tokyo.(邦訳『国際基督教大学創立史 - 明日の大学へのヴィジョン(1945-63年)-』1990)                                          4.“NEW LEADERS for THE NEW JAPAN  International Christian University $10,000,000 Fund  JICUF.”                                              5.中山和彦「高校内申書の信頼性についての一資料」『教育研究11185-2051965.                              6.DESIDERATA 1991, ICU Yearbook Co.                             7.国際基督教大学学生新聞 号外』 国際基督教大学新聞会 (1967112日版)           8.『朝日新聞』「内ゲバ、二学生惨殺」(昭和48(1973)916日版 23頁)

 

付)ウエブ・サイト開設者への質問状

2017年の春以来、ウエブ・サイトの開設者である根本 敬・村田広平両氏(24期生)とは幾度もメールでの交信を重ね、また、わざわざ拙宅にまで来訪してもらったにも拘わらず、学園紛争後に入学した両君には当時の事情を把握してもらうことが容易でないことを痛感させられた。そこで、私なりに疑問点を整理し、これまたメールにて送信して返答を求めたのが次の「質問状」である。

 

「                質問状

1.ICU開学の初期から絶えず頻発していた一連の学園騒動、すなわち「生活協同組合の誘致」(’65.12)・「食費値上げ反対」(’65.5)・「学費値上げ反対」(’55.6,61.5,63.6)、そして「能力開発研究所テスト導入の反対」(’66.5,69.6)等については、果たして何処にわれわれ教職員が執ろうとした本学固有の学生指導方針(大学設置要項12項目)とその実践上の方策に問題点が潜んでいたのであろうか? それとも所謂「疾風怒濤」と評される青年期の単なる反抗心の表れとして、飽くまでもあの時代の教育機関としては看過し容認すべき事柄であったのであろうか?

2.反対運動に関わった学生たちは、如何なる動機から一部の政治団体、或いは偏った報道機関の宣伝情報に流れされ、他大学の組織的闘争活動と連帯するようになっていったのであろうか? その場合に、学生個々の主体的判断を援けるために身近な社会的小集団、すなわち、アドヴァイザー・グループや各種のサークル並びに学生会クラブ等の内部及び相互間のコミュニケーションは、如何なる機能を果たしていたのだろうか。その一端を示したものが、例えば『ICU学生会新聞 号外』であろう。

3.これらの中でも特に「能研テスト」騒動については、何故に既に正式に入学を認められた学生たちが「入学者選抜方法」、すなわち、既得権の資格判定方法について斯くまでも強く反対し、言わば一種の自己否定をせねばならなかったのか? 敢えて憶測するならば、ICU生としての自己に対して未だに確たる自覚と自信を持つことが出来ずにいた証拠、すなわち、日頃の学園生活の中に生じた不満と不安、乃至は挫折感による劣等感の裏返し、言い直せばある種のコンプレックスの表れではなかったのか? まさかとは思いたいが、社会的通念に押されて高校時代に習得した「学力」検査のみによる入試を後輩たちへ要求したくなったのではあるまいか?

4.日教組派の高校教師の指示によって能力開発研究所のテストが受検できなかった志願者たちに対し、本学教授会からの「等価テストを準備せよ」との要請に応ずべく準備した「ICU版学力試験」、但し実際にはある職員に依頼して当該研究所に保管中の予備問題を借用したものだが、その中に「過去に出題されたものと類似な問題が含まれていたことは怪しからぬ」と学外者(予備校関係者と聞き及ぶ)から糾弾された。 しかしながら、「テスト(測定用具)」が改訂版を作成する折には、「妥当性と信頼性」が確保されているか否かを検証するためには所謂「アンカー(錨)項目」を設けることが常道且つ不可欠であり、それ以外に果たして如何なる統計学的手法を以って両者間の「等価性」を保証することが可能であろうか? 

5.「学生会」の決議に対し、在学生の大半が本気で「賛成」していたのであろうか? 実は内心「反対」していたものの、周囲の雰囲気に流されるか、或いは反対派からの弾圧を畏れ、己の真意を素直に表示出来なかったのではなかろうか? その証拠に、ストに参加した学生たちの大半が寮生や下宿生で、通学生が個人として加わった例は極めて少ないと聞き及ぶ。

6.同窓生たち、就中当時の同窓会理事会が果たして母校の緊急事態に際して的確な判断を下し、後輩たちへ適切な助言をしてくれたのだろうか? 特に教育関連の仕事に従事していた先輩たちの意見に反対して、紛争を助長させる思想的に偏向した態度を示した理由は何故か?(資料5)

7.反対闘争により懲罰(停学・退学・退職)処分を受けた学生や教職員に対して未だに支持を表する人々がいるが、これらの同情者は彼らに対して何を為すべきと考えているのか? 逆にこれらの紛争首謀者や扇動者たちが他の多くの学生たちや大学及び教職員とそれらの家族に与えた物的・経済的損害や精神的・心理的苦痛に対しては、如何なる法的または社会慣習的な謝罪や償いをさせることが適切と考えるのか? 法律上の「時効」として風化に任せるのか、しかし、倫理的「良心」の問題は何時までも残りはしないか?

8.大学創設期から既に頻発していた一連の学園内騒動への反省として、70年代中期以降の大学理事会・行政部・教授会・同窓会がそれぞれ新たに執った具体的対策の中で公表できるものは何か?

9.斯様な過去の苦い経験を経て得た数々の教訓を如何にして母校の将来に生かせることが可能か? 学術研究の府としてのICUにおいてこそ、この世間一般人の判断からは恥部とも汚点とも目される「学園紛争」なる事象を、哲学・歴史学・社会学・心理学・教育学・ジャーナリズム・情報科学等の角度から徹底的に精査し、真に高等教育機関として世に先導的なアプローチを探り且つ実践すべきではなかろうか?

 

10.「ICU史の再考」プロジェクトは卒業生有志の発案と聞き及ぶが、可能ならば大学当局と同窓会両者の正式協賛事業とすることは出来ないか? もしもそれを直ぐに実施することが難しければ、少なくとも大学名の付くサイトを公開することにつき一応の内諾を得ておくことが望ましくはないだろうか? 」

 

(以上は『回顧録(続編)―越し方を顧みて―』p183~192―p151~206までは巻末の付録資料部分―からの転載分)